副業と本業のシナジーに必要なのは体力ではなく戦略

仕事の相談

今50代の私は20年前の30代のころ、大きく体調を崩しました

副業で会社を作って広く活動をはじめ、本業ではやりたかった商品企画部に異動しました。

とても充実する毎日を送っていました。

副業は本業に生かせるものでした。

シナジー効果を期待していましたが。。

全国のマニアを繋いで情報発信

本業では、WindowsやUNIXのソフトウェア開発のエンジニアとして、コツコツと割り当てられた業務をこなしていました。

90年代当時、この会社では開発者向けに広いスペースが割り当てられていて、背の高いしっかりとしたパーティションで個人が区切られた中で静かに仕事してました。

一方の副業は、とあるマイナースポーツの情報サイトの運営でした。

最初は自分がプレーヤーとして仲間と楽しむところからはじまりました。

20代の後半でした。

うまくなるにはどうすればいいか、どんな強いチームが同じ地域にいるのか、全国で見たら自分たちはどれくらいの実力なのだろう、などと考えていました。

黎明期のインターネットを駆使して、興味のおもむくままに調べてみると、断片的に情報を集めることができました。

断片的に集まった情報をもとにして、現地に赴いて話を聞いたり、練習を見学しました。

そうして調べた内容をまとめてホームページにして公開しました。

当時はブログやSNSなどない時代です。

ひっそりと、ASAHIネット上に手でコツコツと書いたHTMLをアップロードして公開しました。

当時はGoogleがありませんから、ネット検索といえばYahoo!のインデックス検索です。

このインデックスに載せてもらえるかで、アクセス数が大きく変わるんですね。

早期からこのスポーツカテゴリでは堂々1位のランクで掲載してもらいました。

ネット環境が整備されておらず、ISDNで23時になってから繋ぎ放題になる、という時代です。

ネットユーザーの数もかなり限られていた時代。

私の手作り情報サイトは一部のマニアに注目され、全国の同好の人々からたくさんの反響が寄せられました。

親名義で有限会社を設立

私のサイトは、全国各地のマニアの皆さんを繋ぐハブになることができました。

この時期はちょうどバブルが崩壊したころで、地上げに失敗したような中途半端な広さの空き地が首都圏のあちらこちらにありました。

そんな全国にある多くの空き地の暫定的な活用法として、このマイナースポーツの施設にすることを考える人たちが現れました。

私のサイトに、こうしたスポーツ施設開発の企業がスポンサーについてくれて、サイトは瞬く間に収益化しました。

収益は、ほとんどが直接取引したリンクバナー広告です。

トップページ上段で50万で売れました。

そして、関係各所と契約ごとが増えていく中で、事業を法人化しました

30代前半でした。

獲得した自信を本業へ・・・

本業では定時まで静かな職場で、あいかわらず開発業務をこなしていました。

特許もたくさん出したし、昇進もしました。

そのころ、開発していた商品が世に出る出ないで職場内がゴタゴタする事件がありました。

結果として私の上司たちは会社を離れ、米国の会社にグループで移ることに。

若手の私にはまったく声がかかりませんでしたが、その揉め事の過程で、どんな商品を誰に届けるのか、ということがとても大事で、そこがブレるとどんないい商品でも売れない、という事実に直面しました。

静かに開発業務をするのは悪くありませんでしたが、お客さんが求めるものを分析して、そこに合う商品作りをしたい、とおもうようになりました。

副業で全国各地に張り巡らせた情報網を、知りたい人たちに届けることに成功していた私は、こうしたスキルを本業にも持ち込めるのではないかと考えました。

そこで、もう少し上流工程である商品企画の部門に異動を希望して実現しました。

部門パワーゲームに翻弄され窮地に・・

私が配属された部署は、当時全社的に推進されていたアライアンスの事務局のようなところでした。

自社の製品と他社連携を組んでシステム開発してシェアを伸ばそうという思惑でした。

私が配属されたのは、営業部門やシステム開発部門、製品開発部門が入り乱れて、それぞれのやり方で好き勝手なことを言ってくるのをまとめて推進する役割ですね。

今思えば、そうしたコミュニケーションスキルも何もない30代でしたが、副業で得た自信をそのままぶつけて乗り切ろうとしていました。

部門の代表者が集まるコミュニケーションミーティングは上司が仕切ってくれましたが、個別の打ち合わせや全体ミーティングの議事録などは私が担当です。

言った言わないの些細な話から、誰を呼んだ呼ばない、筋が通った通ってない、などといったメンツ系のクレームまで当時の私には理解できない事象に振り回されました。

それでも、本業の後には、副業が待っています。

すでにマイナースポーツはマイナーの域を出始めていて、大規模な大会の事務局にも名を連ねていて、そんな打ち合わせが深夜にまで及んでいました。

朝まで飲みながらの打ち合わせをして、明け方に最寄りの駅のラーメン屋で締めて帰宅するようなことをしていました。

翌日は午前半休から10時出社になりますが、本業も忙しいので、そうもいかないケースが増えます。

若さにまかせて、何もかも力技で乗り切ろうとする思惑は、体を悲鳴を上げてあっさりと幕引きを迎えました。

眠れない、そして起きられない、理由のない不安に襲われる

まずは不眠になりました。

疲れていたら、寝酒を入れて床につきますが、眠れません。

そしてグルグルと本業と副業について考え始めます。

あれもある、これもある。

出来てない、出来てない。

クレーム入るだろうな、いやだな、面倒だな・・・

朝になりますが、もう頭全体が霞がかかったようで、起きられません

一番困らせられたのが、週末の昼間の不安感です。

でも実際には不安に思わないといけないことは何もないのです。

翌日の宿題に気づいた夜10時のような状態が、ずっと続くのです。

市販薬などを飲んだりしてみましたが、改善なく、医者にかかることになりました。

半年後に復活をすることになりますが、この時点ではお先真っ暗でした。

何も悩みがないのに、常に不安にさいなまれるのです。

副業は仕組みがあったので順調でしたが、思っていた拡大路線には乗せらませんでした。

結論・チャレンジはどちらかに絞る

私の場合、今思えば、副業でチャレンジをするのであれば、本業は安定させるべきでした。

当時、副業は本業には隠してやってましたから、上司に相談することできず、突然、体調不良を告げて申し訳なかったと思います。

今、組織を束ねる立場になって、30代の自分が部下にいたら、注意したいことがたくさんあるし、やってあげられたことがあると思っています。

副業で業務拡大を狙うのであれば、開発部門にそのままい続けるべきでした。

商品企画部門にいくなら、副業は別の人に任せるなどするべきでした。

当時の仕事ぶりをこうして振り返ると、本業、副業そして家族には大きな迷惑をかけた、、と改めて思います。

あなたが30代40代でしたら、ひとつの反面教師として、

50代でしたら、戦略なき副業は体力勝負になる、ということを肝に銘じていただければと思います。

ずまっちはあなたの「副業・本業シナジーの成功への道」について相談に乗ります。下記TwitterアカウントにDM頂ければと思います。

@Over50Reborn

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